2010年5月より船橋港で、一般公開が始る
「しらせ」は、もとは海上自衛隊の所属であり、南極観測に使用された。現在、ウェザーニューズ社が所有しており、同社では「SHIRASE 5002」というものを、正式名称として使っている。なにせ観測船、すなわち砕氷船という特殊な船であるため、経緯があった。それは、とても安価に購入できたものの、改修費がかなりかかったという。
南極観測船は第一代が「そうや」、第二代が「ふじ」になる、「しらせ」は第三代のということになる。現に南極に行っているのは第四代「新しらせ」である。今現在では、「しらせ」は「shirase 5002」として、船橋港 (正式には千葉港葛南区) のサッポロビール工場に隣接する埠頭に係留されている。
2010年5月から一般公開されており、仄聞するに改修費が10億円かかっている。年間の維持費用でも、年1億から2億円ぐらいかかっているらしい。それは地球環境保護の教育と、南極観測の歴史的意義を伝えるものとなっている。
見学は無料、完全予約制
見学は無料で、送迎バスになっている。これは一日三回で、一回につき20名までとなっている。JR京葉線の新習志野駅にて、定刻の集合をする。それは完全予約制であり、土曜・日曜・
祝日は満杯なので、なるべくならば平日の予約が、望ましいとのことであった。http://shirase.info/をどうぞご覧ください。
予約できる時間帯は、以下のようである。
10:00、12:30、15:00に同駅に集合。
全体で見学に要する時間は、約2時間弱である。
注意 車の乗入れ厳禁
地球環境のシンボル
SHIRASEには、Kanchoが同社副社長の宮部二朗氏で、副Kanchoに75歳エベレスト登頂の三浦雄一郎氏が就任している。
また、地球環境のシンボルとしてなるまでの間、逸話としていうならスクラップになりそうであった「しらせ」だが、鉄屑価格の低迷で、その機会が無かった時期に、これを引き取っている。
いろいろ紆余曲折あっての末、ということだろう。
そして、「しらせ」に新たに設置するレーダーとして「WITHレーダー」というものがある。同社が、これは首都圏のゲリラ雷雨や突風を観測し、半径50kmをカバーするもので、気象予測に使われてでの活躍が期待されている。
一方では、船内においては環境教育の施設も用意されており、子供たちへの教育を行うことができるようになっている。
南極観測船「しらせ」の歴史と経緯
「しらせ」について
南極観測船「しらせ」は、先代の「ふじ」の後継艦として建造されている。艦の排水量が1万トン級であり、海上自衛隊のなかでも大型艦である。所属としては海上自衛隊であるが、使用目的が南極観測という平和利用に限られていた。自衛官が艦の運航を行い、南極へ観測員を乗せていく、ということになる。人員物資の輸送が主な任務であるが、氷山をはじめとして危険このうえない。たとえば、昔の客船タイタニック号は、氷山に衝突して沈没している。
砕氷艦ならではの装備がほどこされており、船首は海面の上に横に突き出たような格好をしている。これは、砕氷するための形であるらしい。能力としては、1.5mまでの厚さの氷を砕けるという。内部には特殊な機構を装置して、砕氷していく船首なのだそうだ。日本の造船技術、そして科学技術の粋を集めて、建
造されている。従来よりも、居住性は快適であるという。観測隊員は特に優遇されており、一室2名での生活だが、自衛隊員はそれが6名での生活だという。
略 史
1981年 3月5日に日本鋼管の鶴見で起工し、同年12月11
日に建造完成し、進水した
1982年 11月12日に海上自衛艦へ就役する
1983年 から第25次南極観測へ就役はじまる、2008年の
第49次南極観測まで25回の任務についた
2008年 7月30日に海上自衛艦を退役した
2009年 10月にウェザーニューズ社に引渡され、同社の
所有となる
2010年 5月より千葉県の船橋港での一般公開が始る
越冬の朝
南極の氷原に「しらせ」が背景となり、ペンギンがいかにも、のどかそうに見える。地球環境の象徴といえば、言えなくもない。垣間見えたひと時、南極の美しさと厳しさのコントラストだろう。
「しらせ」性能諸元
基準排水量11,600トン
全長134m 全幅28m 喫水9.2m
最大速度19ノット 30,000馬力
ディーゼルエレクトリック3軸推進
航続距離25,000マイル(15ノット)
乗員170名 観測員60名
ヘリコプター3機
ペンギンと「しらせ」
越冬生活、地球環境の保護
南極観測では、一年間に亘る越冬をする者たちを「冬隊」という、しない者たちを「夏隊」といい半年間の滞在になるという。越冬隊長は観測隊副隊長が兼任し、『昭和基地』もしくは『ドームふじ基地』が越冬観測の主体になるという。基地は全部で四つあり、加えて他には、『みずほ基地』が昭和基地とドームふじ基地との中継点になる。そして、『あすか基地』は、無人の気象観測を行っている。
越冬生活では、居住棟の割当が一人約13㎡(4畳)の部屋になり、バス・トイレは共同。床暖房が完備していて、室温が保たれている。公衆電話は管理棟にあり、自費だが日本へ電話をかけられる。バーもあるが、隊員の当番でバーテンダーをこなすという。食事は調理師免許を持つ隊員の指導の下、各隊員の交
代でつくる。越冬も後半になると、生野菜や果物が不足してくるという。基本的に隊員は、自分の身の回りから全般にかけて、自分自身で生活をこなすものである。
南極には病原体というものが存在せず、風邪はひかないものだという。勿論、南極へ出発する前には、風邪、水虫、虫歯にいたるまで、完全治療しておく事になっているらしい。
防寒のためか、髭をはやしている隊員が多い。また丸刈り坊主頭にしておき、帰国まで散髪を行わない隊員もいるという。
氷床深層掘削計画というものがあり、ドームふじ基地において、地下3000mの氷床コアというものを採取するという。この氷床コアを分析すると、100万年間の気候変動が、判るというものである。
地球の環境保護にかかわるデータになるもので、大いに今後の研究が、期待されている。
明治の冒険家、白瀬中尉
明治時代に日本人として、創めて南極の探検観測をした人を知っているか。白瀬中尉と、いう人である。事実上、その偉業を讃えて名前を冠されたのが、第三代南極観測船の「しらせ」である。現在は、民間会社の所有になり、「shirase 5002」という名前になっている。
昔の帝国海軍では、船にひとの名はつけない慣例があり、現在もそれにならっている。そこを便宜的に南極にある地名の白瀬氷河に、ちなんだものという方便で命名している。その伝統を受け継ぐ海上自衛隊は、そうしたらしいと伝えられる。
その生涯の事跡
現代とは大きく事情が異なるものの、彼は冒険者として認識すべきだろう。それは栄誉を求めるものではなく、やりたい事を行う冒険者という一面をのぞかせる。南極探検というものは、大時代な行為と見えるが、そうであろうか。遣りたいから遣った、そんな冒険の様子がよく見て取れる。
その南極探検は、緻密な計算にもとづくものでなかった。財政的な裏付けをはじめとして、探検の進むべき目標の地点は大まかなもので、大陸としての南極には到達できなかった。しかし、その偉業とは、はじめて日本人として南極へ行った、それであろう。当時、地図でしか解らなかった、南極大陸である。
南極探検はなしたけれども、その後の苦労はとても大きかった。その生涯は、借金返済のために費やされた、といっても言い過ぎではない。
白瀬中尉
開南丸
訥々とした熱意が好感された
今とは大きく違う時代であった。何せ船といっても、帆船に毛が生えたようなもので、南極おろかその近くまでをも到達不可能だと言われた。船を見つけるのが、大変だったらしい。ようやく見つけても、お金が元々ありゃしない。
当時における南極とは地図に存在しているもので、日本人には想像がつかないものだった。しかし白瀬は粘り強く運動して、資金集めもどうやらなんとかなったらしい。なんとか見つけた船が「開南丸」と名づけられて、着々と準備を整えていった。
あまりにも無謀である、というのが一般の意見の大勢であった。しかし、その軍人(探検家、冒険家)としての訥々とした態度は、好感をもたれたという。構想は彼自身にあったものの、計画がはじまるまでに相当の期間を要した。船の次は人員の確保である、だが前述のように困難を極めた。それでも彼の熱意が好感され、次第に陣容はできあがっていった。
白瀬南極探検100周年
昨年の2010年が、白瀬中尉の南極探検から100周年を迎えた。記念行事も行われているが、先駆者への評価はどうなのであろうか。一人の日本人、冒険家として評価すべきだろう。国威発揚の時代も、過去にはあった。しかし、明治の冒険家という意味ではない。偉業を再評価する、いい機会ではないのか。帝国陸軍軍人として中尉であった彼は、幼いときから南極への情熱は篤く、精進したという。当時の人々からは、喩えようもない探検への情熱が、しのばれるであろう。
1910年(明治43年)11月28日東京の芝浦埠頭を出港し、1911年2月8日にニュージーランドのウエリントン湾に入港するも、悪天候などの理由で同年5月1日にオーストラリアのシドニーに引き返した。1912年1月16日に南極大陸へ上陸、その地点を「開南湾」と命名した。極地の到達へは適さなかったため、ロス棚氷・クジラ湾より再上陸し、1月20日に極地の到達点へ目指し出発した。1月28日にやむなく、南緯80度5分、西経165度37分の地点に日章旗を掲げた。ここは、大陸ではなく、氷上であったという。帰路の食料などの関係で、この地点になったものである。やむなくここを「大和雪原」と、命名した。
大和雪原(やまとゆきはら)
苦難の借金返済、冒険の代償なのか
南極探検のために援助する目的の後援会が、まったく逆に白瀬中尉を苦しめる事になった。その後援会の幹部が、探検のための資金を使い込みをして遊興費に使ってしまった、という事件があった。探検に参加した、隊員の給料さえ払えなくなってしまった、という。そうでなくても、資金は不足していた。南極探検のためにではなく、使い込みで借金がふくらんだ。つまり、それを背負ったのは、白瀬中尉である。その金額が、当時で数万円になったという。
冒険の代償ということか、苦難のはじまりである。家財を売却し、転居につぐ転居を重ね、実写フィルムをもって娘と共に講演をして回った。日本はもとより、台湾、満州、朝鮮半島にまで周り借金返済にあてたという。20年の年月を経て、南極渡航の借金を返済した。1946年 (昭和21年) 9月4日に愛知県西加茂郡挙母町 (現・豊田市) で逝去している。享年は、85歳だった。
なお、当時の日本における占領軍の最高司令官であったマッカーサーへの手紙を送っている。自らが到達した、南極についてである。そして、その南極探検の業績については、認めているという返事をもらっている。